日曜メッセージ:ヨハネ2章13~25節 真の礼拝への熱心
ヨハネ2章13~25節 真の礼拝への熱心
この箇所に描かれているイエスの姿は、多くの人が思い描きがちなイエスのイメージとは大きく異なります。一般にイエスは、いつも穏やかで優しく、人を慰める存在として見られがちですが、ヨハネ2章では、神の聖さと真の礼拝を守るために、強い決断と権威をもって行動されるイエスが描かれています。この場面は、イエスが単なる癒し手や教師ではなく、神の家の主として、妥協なく私たちの信仰と生き方を問い直されるお方であることを示しています。
1.背景:過越と神殿(13~14節)
ヨハネは、「ユダヤ人の過越の祭りが近づいていたので、イエスはエルサレムに上られた」と記しています。過越の祭りは、ユダヤ人の生活と信仰において最も重要な祭りであり、神がイスラエルをエジプトの奴隷状態から力強く救い出された出来事を記念するものでした。それは単なる宗教行事ではなく、神の救いの力、契約に対する真実さ、そして神の民としての贖われたアイデンティティを生き生きと思い起こさせるものでした。
過越の時期のエルサレムは、通常の人口をはるかに超えて混雑していたと考えられます。
ユダヤ人の巡礼者たちは、ガリラヤ、ユダヤ地方、さらにはローマ帝国各地から集まって来ました。
町の人口は、通常の何倍にも膨れ上がっていた可能性があります。
特にローマの支配にあった当時、町全体には期待、記憶、そして民族的希望が入り混じった緊張感が満ちていました。
神殿は、単なる建物や集会の場所ではありませんでした。それはイスラエルの生活と信仰の中心に立つ存在でした。
神の臨在の場:神殿は、天と地が出会う場所、神がご自分の名を民の間に住まわせることを選ばれた場所を象徴していました。
礼拝者たちは、贖い、感謝、そして神との和解のために、いけにえをささげるために神殿を訪れました。
民族的・霊的アイデンティティの中心:イスラエルにおいて、神を愛することは、神殿を重んじることと切り離せないものでした。
神殿を疑問視することは、ユダヤ人の宗教生活の核心そのものを問うことを意味していました。
イエスは神殿の境内に入り、異邦人の庭と呼ばれる外庭に来られます。
ここは、異邦人がイスラエルの神を礼拝するために近づくことのできる、唯一の場所でした。
本来は、祈りと畏れ、そして諸国の民を招くための空間として意図されていました。
しかし、イエスが目にされたのは商業活動でした。
牛、羊、鳩を売る人々
両替人たちが座っている台
これらの活動には、実際的で正当な理由がありました。
いけにえとして動物が必要だったこと
遠方から来る巡礼者にとって、動物を連れて来るのは容易ではなかったこと
ローマの通貨を神殿で認められた硬貨に両替する必要があったこと
神殿税には、異教的な像のない特定の通貨が求められていたこと
しかし、時がたつにつれて、便利さは支配へと変わっていきました。
商業が黙想の場を圧迫しました。
騒音が祈りに取って代わりました。
異邦人が神に近づくためのアクセスは狭められました。
礼拝を支えるはずのものが、礼拝そのものを支配するようになったのです。
外見は依然として宗教的でしたが、その中心はすでにずれていました。
宗教的な仕組みは、ゆっくりと、礼拝に仕えるものから礼拝を支配するものへと変わっていくことがあります。それは、信仰を助けるためのものから、力や利益、あるいは伝統を守るためのものへと姿を変えていきます。
これこそが、イエスが神殿に入られたときに直面された緊張関係でした。
2.イエスの挑戦的な行動(15~16節)
ヨハネは、意図的で段階的に強まっていく一連の行動を描写しています。イエスは縄でむちを作り、動物たちを追い出し、両替人の硬貨をまき散らし、彼らの台を倒し、鳩を売っている人々に向かって、父の家を商売の家にしてはならないと命じられました。
これらの一つ一つの描写には意味があります。
むちは人を傷つけるためではなく、動物を追い出すために用いられています。
床に散らばった硬貨は、経済的な仕組みが揺さぶられたことを象徴しています。
倒された台は、権威が挑戦され、制度そのものが裁かれていることを示しています。
イエスの言葉は、その行動の意味を明らかにします。「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
これは衝動的な怒りや自制の喪失ではありません。ヨハネは、イエスがむちを作られたことを意図的に記しており、それが計画的で思慮深い行動であったことを示しています。イエスの怒りは、
苛立ちではなく、聖さに根ざしたもの
個人ではなく、歪められた宗教的実践に向けられたもの
破壊ではなく、回復を目的としたものでした。
これは罪深い怒りではなく、義なる憤りです。
ここから、いくつかの重要な真理が浮かび上がります。
イエスは神殿を「わたしの父の家」と呼び、権威を主張された
これは非常に大胆な宣言です。イエスは伝統に訴える改革者としてではなく、所有者として語られています。
問題は商業そのものではなく、礼拝の堕落でした
売買自体が罪であったわけではありません。しかし、経済的な便利さや利益が、祈り、畏れ、そして神への近づきやすさに取って代わってしまったのです。礼拝は関係的なものではなく、取引的なものになっていました。
異邦人を迎えるための庭が、騒がしく、混雑し、近づきにくい場所となっていました
本来、諸国の民が神を求めるために開かれていた空間が、障壁で満たされてしまっていたのです。
イエスはイスラエルを忠実さへと呼び戻すと同時に、ご自分を神殿の主として宣言し、父のものをきよめる権利を主張されたのです。
3.熱心と成就した聖書(17節)
弟子たちはイエスの行動を目にして、次の聖書の言葉を思い起こします。「あなたの家を思う熱心が、わたしを食い尽くす。」
この言葉は詩篇69篇9節からの引用であり、神への献身ゆえに拒絶され、苦しみを受ける義なるしもべを描いた詩篇です。この御言葉を想起させることで、ヨハネは、イエスの行動を単なる抗議ではなく、聖書の成就として理解するよう読者を導いています。
「熱心」とは、情熱的で身を尽くす献身を意味します.。それは軽い関心や一時的な思いではなく、優先順位、行動、そして生き方そのものを形作る全身的な献身です。
この詩篇は、忠実さのゆえに生じる苦しみを語っています。詩篇69篇では、神の家に対する熱心が、そしり、誤解、そして敵意を招きます。神への献身は、忠実なしもべを反対から守るのではなく、むしろそれを引き寄せるのです。
4.しるしを求める要求(18~20節)
宗教指導者たちは、悔い改めをもってではなく、挑戦する態度でイエスに応答しました。「これらのことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」
この問いは、彼らの姿勢をはっきりと示しています。彼らが問うているのは、イエスが正しいかどうかではなく、どのような権威によって行っているのかという点でした。彼らの考えの中では、
権威とは、資格や地位、あるいは奇跡的なしるしによって証明されるべきもの
神殿の指導的立場は、聖さではなく制度によって保証されているものでした。
イエスは、意図的に挑発的な意味をもつ言葉で応答されます。「この神殿を壊してみなさい。わたしは三日でそれを建て直す。」
これは、彼らの問いに対する直接的な答えではなく、問いそのものを組み替える応答でした。イエスは、彼らが求める形のしるしを与えません。その代わりに、
彼ら自身が関わることになる将来の出来事を指し示し
ご自分の権威を、見世物的な奇跡ではなく、死と復活に結びつけられました。
指導者たちは、イエスの言葉を文字通り、防御的に受け取ります。
彼らはヘロデの神殿という物理的な建物に目を向け
その建設に四十六年かかったこと、しかもまだ工事が続いていることを指摘しました。
その反応は、否定的で、どこか嘲るようなものでした。
しかし、彼らの誤解は、主に知的なものではなく、霊的なものでした。
彼らは、建物なしに神の臨在を想像することができず
自己を明け渡し、苦しみを通して現される権威を理解することができず
イエスの言葉を聞きながらも、それを自分たちの既存の制度というフィルターを通して解釈していたのです
5.明らかにされる真の神殿(21~22節)
ヨハネはここで説明を加えます。「イエスは、ご自分のからだである神殿について話しておられたのである。」
ここに、この箇所の中心があります。
イエスご自身こそが、神の真の住まいであること
神への近づきは、もはや建物ではなく、**一人の方(イエス)**を中心とすること
イエスの死と復活によって、神殿制度そのものが完全に置き換えられること
弟子たちがこのことを完全に理解したのは、復活の後でした。信仰は、時と熟考、そして御霊の働きを通して深められていくのです。
1.教会への警告 ― 優先順位を吟味する
牧師として何を優先順位しているか(週報づくり?説教の準備?)
神の栄光と弟子形成なためにが一番大事
教会は、忙しく、成功していて、活動的であっても、真の礼拝から離れてしまうことがあります。活動の多さは健全さのように見えながら、霊的な疲労や、ずれた優先順位を静かに覆い隠してしまうことがあります。
時がたつにつれて、プログラムや伝統、制度が、神の栄光や弟子形成のためではなく、自らを維持するために存在するようになることがあります。
教会の予定表が、会議、プログラム、リハーサル、行事でびっしり埋まっていても、祈り、神の声に聴くこと、霊的な休息のための余地がほとんどない、ということも起こり得ます。
また、「ずっとこうしてきたから」という理由だけで、長年続けられている働きはどうでしょうか。それは本当に神の栄光を現し、弟子としての成長を育んでいるでしょうか。
この箇所は、私たちに次のことを思い起こさせます。
吟味されない良い制度は、やがて障壁となり得ること
慣れ親しんだ実践が、意図的な献身に取って代わること
効率が、忠実さより優先されてしまうこと
イエスは活動そのものを非難されるのではなく、神の臨在を覆い隠し、神への近づきを妨げるものを厳しく対峙されるのです。
問い もしイエスが、私たちの意図ではなく、実際の時間の使い方、エネルギー、関心を調べられたとしたら、私たちは何を最も大切にしていると言われるでしょうか。
2.期待と謙遜、畏れをもって礼拝に臨む
何度も結婚式に出席してきたからといって、遅れて来たり、気が散ったり、携帯電話を見ながら出席する姿を想像してみてください。慣れは、畏れを鈍らせます。問題は式そのものではなく、心の姿勢です。
台風警報でも教会に行く 熱心な信仰
神殿でのイエスの行動は、神にささげられた場所や実践を、イエスがどれほど大切にしておられるかを示しています。それは建物そのものが聖いからではなく、礼拝が神の民の心を形づくるからです。(掃除の日)
では、私たちはどのように教会を大切にしているでしょうか。
このことは、私たちに次の点を省みさせます。
礼拝が、関係的なものではなく、日課的なものになっていないか
畏れの代わりに、便利さを優先していないか
神と出会う準備をして集っているのか、それとも単に行事に出席しているだけなのか 土曜日から準備
人の悪口・うわさばなし?
畏れある礼拝とは、スタイルや好みの問題ではなく、姿勢の問題です。それは、へりくだり、期待、そして畏れをもって神に近づく心です。
問い 私たちは、期待と謙遜、畏れをもって礼拝に臨んでいるでしょうか。それとも、便利さや習慣の延長として臨んでいるでしょうか。
3.個人の信仰への挑戦 ― きよめと刷新
家は、少しずつ物が増えていっても、しばらくの間は機能し続けます。何かが明確に壊れているわけではありませんが、動きにくくなり、平安は失われていきます。やがて掃除が大変に感じられ、散らかりが当たり前になってしまいます。
神殿のきよめは、建物を超えた、より深い現実を指し示しています。イエスは心をきよめられるお方です。
このことは、正直な自己吟味へと私たちを招きます。
スマートフォンの問題
キリストが占めるべき場所を競い合っているものは何か
どのような習慣、野心、恐れが、神への信頼を押しのけているのか
どこで霊的な「散らかり」に慣れてしまっているのか
罪を習慣的に行なっていのか
イエスのきよめは、破壊的なものではなく、贖いと回復のためのものです。神とのいのちを妨げるものを取り除き、ご自身の臨在が私たちの内に豊かに住むために、イエスは覆されるのです。
自己吟味 怒りではなく、恵みによって、今、何が覆される必要があるでしょうか。