日曜メッセージ:「来て、見なさい」ヨハネ1:35–42
ヨハネ1:35–42
日本における「師匠と弟子」の文化
私のいとこは、長野で刀鍛冶(刃物職人)の道を学びました。最初から刀を打たせてもらえたわけではありません。
弟子入りした当初、彼の仕事はとても地味なものでした。工房の掃除をすること。火の番をすること。師匠の仕事を黙って見続けること。
何年もの間、彼は自分のナイフを作ることはできませんでした。しかし、毎日師匠のそばで過ごし、道具の扱い方、鉄の音、火の色、言葉にならない感覚を、時間をかけて体に染み込ませていきました。
やがて、ある日、師匠は多くを語らず、こう言いました。「やってみろ。」そのとき、初めて、彼はいとこは自分の刃物を作ることを許されたのです。
それは突然のように見えましたが、実際には、長い「共にいる時間」がその日を準備していました。
アンデレとペテロ ピリポとナタナエル
ヨハネ1:35–37
バプテスマのヨハネは、イエスが歩いて行かれるのを見て言った。「見よ、神の小羊である。」ヨハネの弟子が二人それを聞き、イエスについて行った。
教師(ラビ)は通常、弟子を手放さなかった
一世紀のユダヤ教において、ラビの名誉は弟子の数によって示された。
弟子は通常、一人の教師に忠誠を保った。
しかし、バプテスマのヨハネはその逆を行い、自分の弟子たちをイエスのもとへ送り出した。
ヨハネの証しは、人々を真理へ導くためのものであった。
多くのユダヤ人は、神が約束された救い主を待ち望んでいた。ヨハネの言葉は、その長く待ち望まれてきた時が来たことを示している。
「神の小羊」
罪のためのいけにえを指す表現。
過越の小羊(出エジプト記)。
神殿でのいけにえのささげ物。
弟子たちは議論したり、ためらったりしない。すぐにイエスに従った。これは完全な理解ではないが、信仰の第一歩であり、旅の始まりである。
ヨハネ1:38–39
共にいることの意味
誰かと共にとどまることは、信頼と献身を意味する。
これは短い訪問ではなく、共に生きる歩みの始まりであった
イエスの問い:「何を求めているのか」
イエスは、何を信じているかではなく、何を望んでいるかを問われた。イエスは知識よりも、心の願いに関心を持たれる。
彼らの答えを訂正したり、導いたりはしない。自分自身の動機を明らかにすることを許される。これは正直さを招く。
イエスは人々の現状に出会われる:献身の前に、内省へと招かれる。
弟子たちの応答
彼らは間接的に答える。動機を説明せず、「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねる。これは情報ではなく、関係を求める問いである。
彼らは答えよりも、イエスと共にいる時間を求めた。
イエスの招き:「来なさい。そうすれば分かる」
これは説明ではなく、招きである。イエスは教えを与える前に、体験へと招かれる。理解は後から与えられる。
弟子たちは、すべてを知らないままイエスと共にいた。信仰は、理解よりも先に信頼から始まる。
招きの神学的意味
弟子になることは関係的である。キリスト教は、まず教理の体系ではない。キリストと共に生きる人生である。
イエスは時間をかけてご自身を示される。真理は、共にとどまり続ける中で明らかにされる。成長は、主にとどまることによって起こる。
ヨハネ1:40–42
アンデレは、最初にイエスに従った二人のうちの一人であった。
イエスと共に時を過ごした後、アンデレはすぐに自分の兄弟シモンを探しに行く。そして、ただこう言う。「私たちはメシアに出会った。」
イエスと共に過ごすことは、自然にイエスを分かち合うことへとつながる
アンデレは長い説明や議論をしない。弟子訓練は、個人的な関係を通して広がっていく。
完全な理解ではなく、シンプルな証し(41節)
アンデレは、イエスが誰であるかをすべて理解していたわけではない。それでも、自分が体験したことを確信をもって語る。知らないことではなく、知っていることを分かち合う。
神は、語る前に完全な知識を求められない。
忠実な証しとは、キリストが自分にしてくださったことを正直に分かち合うことである。
弟子は、専門知識ではなく、出会いに基づいて人を招く。
人をイエスのもとへ導く(42a節)
アンデレは、シモンを直接イエスのもとへ連れて行く。
私たちの役割は、人々をイエスへと導くこと。その結果は、イエスに委ねる。
イエスは「今」だけでなく「将来」を見ておられる(42b節)
イエスはシモンを見つめ、「ケパ(ペテロ)」という新しい名を与えられる。
その名は、今の姿ではなく、将来どのような者になるかを示している。
イエスは、シモンの人生に将来の目的を語られる。
イエスは、私たちを「今ある姿」だけでなく、「やがてなる姿」として見ておられる。
弟子訓練は、時間をかけた変えられていく過程である。
イエスに従うことには、恵みによって与えられる新しいアイデンティティを受け取ることが含まれる。
1 新しい年の始まりに「何を求めているのか」を問い直す
(スーパーマーケットで迷子になる例)
イエスは命令からではなく、問いから弟子訓練を始められる。「あなたは何を求めているのか。」
新しい年は、目標や計画、決意、抱負を立てる時である。しかし、イエスは心を吟味するよう招かれる。
私たちが何を求めているかは、生き方、優先順位、そして将来の姿を形づくる。
適用
新年の決意を立てる前に、立ち止まって正直に問う。
私は本当に何を求めているのか。
安心か、成功か、快適さか、承認か、支配か。
それとも、イエスご自身を求めているのか。
新しい年の招きは、人生を「より良くする」ことだけではなく、願いそのものをキリストに合わせて整えていくことである。弟子訓練は、イエスが私たちの追い求めているものを名づけ、形づくることを許すところから始まる。
2「来て、見なさい」を弟子訓練の生き方として受け取る
カラシの種
イエスが求めておられる信仰は、「からし種一粒ほどの信仰」です。それは大きく立派に見える信仰ではなく、とても小さく、弱く、未完成に見える信仰です。
からし種はとても小さいですが、命を持っています。
イエスが大切にされるのは、信仰の大きさよりも、信仰が本物であるかどうかです。たとえ不安や疑いが混じっていても、神に向かって差し出される信仰を、イエスは喜ばれます。
弟子たちは最初から強い信仰を持っていたわけではありません。
「来て、見なさい」というイエスの招きに、小さな一歩で応答しただけでした。しかし、その小さな信仰が、イエスと共に歩む中で育てられていきました。
イエスは、弟子たちの知りたいことをすべて説明されない。
確実さ、容易さ、即座の答えを約束されない。代わりに、臨在を差し出される。「来て、見なさい。」
適用
新しい年、私たちは多くの明確さを求める。決断について、人間関係について、仕事や将来について。しかしイエスは、行き先がすべて分かる前に、共に歩むことへ招かれる。
「来て、見なさい」によって生きるとは:一歩ずつイエスを信頼すること。完全な理解よりも忠実さを選ぶこと。従順の中から理解が与えられると信じること。
今年の弟子訓練は、すべてを把握することよりも、道がまだ完全に見えなくてもイエスと共に歩み続けることかもしれない。
3 他者を招く:「来て、見なさい」
アンデレがイエスに出会って最初にしたことは、兄弟を招くことだった。
議論もしない。説得もしない。圧力もかけない。
ただ、「私たちはメシアに出会った」と言い、イエスのもとへ連れて行く。
適用
新しい年を考えるとき、弟子訓練は内向きだけではない。イエスに従うことは、自然に外へと向かう。
考えてみよう:
今年、神があなたの心に置いておられる「一人の人」は誰か。
その人を、あなたの生活、教会、信仰の歩みへ招くとは、どのような形だろうか。
招きに必要なのは、答えや議論、確信ではない。必要なのは、関係と信頼である。今年、イエスが与えてくださる同じ招きに根ざして歩もう。「来て、見なさい。」
餅つきと弟子訓練のたとえ
1.米は、そのままでは餅にならない
もち米は、まず洗われ、水に浸され、蒸されます。
これは時間と忍耐を要する工程です。
すぐに形を変えることはできません。
弟子もまた、最初から整った存在ではありません。
神はまず、私たちを整え、備え、時をかけて扱われます。
弟子訓練は「すぐに結果が出る歩み」ではなく、「準備される歩み」です。
2.打たれることで、柔らかなる
餅は、ついて初めて餅になります。
打たれることで、硬さが取れ、粘りが出ます。
神は時に、私たちを試練や訓練の中に置かれます。
それは壊すためではなく、形づくるためです。
打たれる経験を通して、私たちは柔らかくされます。
3.手に水をつけながら、形を整える
つき上がった餅は、そのままでは扱えません。
手に水をつけ、丁寧に丸め、形を整えます。
力任せではなく、繊細さが必要です。
陶器師のたとえとのつながり
聖書は、神を陶器師、私たちを粘土にたとえます。
陶器師は、粘土を叩きつけるのではなく、手の中で、必要な力で、形を与えます。
神が望まれる姿へと変えられていく歩みです。
4.餅は、分かち合うために作られる
餅つきは、個人のためではなく、共同体のために行われます。
ついた餅は、人に配られ、共に食べられます。
弟子は、自分のためだけに形づくられるのではありません。
神に整えられた命は、他者を養い、祝福するために用いられます。
弟子訓練は、最終的に分かち合いへと向かうのです。