日曜メッセージ:「良いことのための計らい」創世記50章15節〜26

聖書箇所:創世記50章15節~26節 

タイトル:良いことのための計らい Meant for Good

ヨセフの物語が終わり、創世記の完結を迎えます。この「神と歩む」シリーズは、「神は悪を良いことのために計らう」というテーマで終わりたいと思います。これはヨセフのお話だけでなく、創世記全体のテーマです。悪があふれていても、神は善を成し遂げておられます。アダムとエバがエデンの園から追放されて以来、罪と死が蔓延しました。創世記の全部とヨセフのお話には、死、裏切り、暴力、飢饉、そして罪が蔓延しています。しかし、罪があふれているときでも、神は明らかに救いの計画を実行されています。

神はどのようにして悪から善を生み出すのでしょうか?それは不可能に聞こえますね。戦争から良いものが生まれるわけがない。経済的苦難から何か良いことがあるでしょうか?仕事を失うことで、何か良いことがあるでしょうか?愛する人を失って、何か良いことがあるでしょうか?神は悪を良いことのために計らいます。それは、神が私たちに与えてくださった約束であり、神の御言葉の中にある約束なのです。悪と苦しみが最終的な決定権を持っているわけではありません。善が勝利するのです。

これは、悪を喜ぶとか、悪が栄えるのを許すという意味ではありません。悪は悪であり、私たちは悪を軽蔑します。悪が栄えるとき、私たちは嘆き悲しみます。私たちは悪に反対します。私たちは悪を憎みます。しかしそれだけでなく、私たちは、神が支配しておられることを知りながら、悪を忍耐していくのです。死の陰の谷を歩むとき、悪がはこびる中を歩むとき、暗闇を歩むとき、私たちはどのようにしてヨセフのような視点を養うことができるでしょうか?創世記50章15節~26節 

ヨセフは、人生の最も困難な時期にも、神の摂理と導きを十分に認識していました。創世記50章20節「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」私たち人間には、未来や、事の全体像を見通すことは不可能です。しかし、私たちは、神が悪から善をもたらしてくださるという約束の上に立つことができるのです。

1)ヨセフは神の計らいを認識していた。ヨセフは、兄たちが自分に犯した罪を罰する権利がありました。兄弟はそれを知っていました。父ヤコブが死んだとき、彼らはヨセフを恐れていました。しかし、ヨセフは兄たちを罰するつもりはありませんでした。ヨセフは、自分の人生に起こったことは、悪いことも良いことも、すべて神によって仕組まれたことだと知っていたのです。ヨセフは信仰の人であり、神が支配しておられることを知っていたのです。ヨセフは、自分がエジプトの支配者になったとき、兄たちが穀物を買いに来たとき、それを認識しました。創世記45章5節「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」

ヨセフが兄弟を責めなかった理由は、神が悪を良いことのために計らわれたことを知っていたからでした。大変興味深いですね。ヨセフは、自分に起こったこと、良いことも悪いこともすべて、家族を救うための神の壮大な計画の一部であると認識していました。ヨセフは兄弟を愛していました。彼は、兄弟たちがしたことのために彼らを罰することを望みませんでした。

子供の頃を思い出します。日本で幼い頃、私は母と一緒に地元の公立図書館にいました。そこで初対面の男性に唾を吐きかけられました。私はショックを受けました。母は激怒しました。このような経験は、子ども時代を通じて何度もありました。日本では、見た目も、行動も、話し方も違う私は、小さい時のほとんどをのけ者にされたような気分で過ごしていました。長い間、私はとても苦しく、心の中にたくさんの憎しみを抱えていました。

しかし、神は私の心を完全に変えてくださいました。子どものころに経験したすべての痛みと苦しみが、神の力によって突然取り除かれたのです。神はその苦しみを愛と赦しで置き換えてくださったのです。もし、そのような経験がなければ、私は今ここに立っていません。辛い経験は、すべて神の計画の一部でした。神に感謝します。もし、過去に私を傷つけた人たちに会う機会があれば、その人たちに感謝したいとさえ思います。

イエスが亡くなる直前、十字架の上で父なる神に「父よ、彼らをお赦しください。」と言われました。彼らとは、イエスを十字架につけよと、いう命令に従った兵士たちのことを指しています。兵士たちは、知らずに預言を実現していたのです。イエスは自分に直接、悪をもたらした彼らを非難していません。彼らを愛し、彼らのために祈っているのです。あなたが悪に直面したとき、苦しみに直面したとき、あなたは憎しみで反応するでしょうか?恐れをもって対応しますか?それとも、イエスのように愛を持って反応しますか?

もし私たちが、自分の人生における神の計画を見ることができなければ、絶望と悲観に陥ってしまうでしょう。神が支配しておられることを忘れてしまいます。希望を失います。方向性も目的も失います。しかし、神が悪から善をもたらしてくださることがわかれば、死の陰の谷から脱出する道が開けます。神が支配していることがわかれば、希望と目的があります。

これは、簡単に理解できる真実ではありません。ウクライナ難民に、「神は戦争を良いことのために計らう」と簡単に言えるでしょうか。苦しみの真っ只中にいる時には、これは最も理解しがたい真理です。多くの場合、悪や苦しみしか見えません。しかし、聖書は私たちに何度も何度も、「絶望するな、神は悪から善を引き出される」と語りかけています。私の祈りは、ヨセフのように、最も不可能な状況でも、神様は良い結果をもたらしてくださるということを、心の中で知ることができるようになることです。

2)神は悪を良いことのために計らう。神は悪を良いことのために計らう例について、聖書から探ってみたいと思います。受難週間と復活祭が近づいてきました。十字架のことを思います。十字架は、言いようのない恐怖と屈辱の象徴であります。十字架は死を象徴します。十字架は罰を象徴します。悪を象徴するものです。聖書は、イエスの十字架刑の詳細には触れていません。聖書はただ、イエスが十字架につけられたと述べています。十字架刑はおそらく、これまでに発明された中で最も苦痛を伴う死に方です。

古代ローマの政治家キケロは、十字架刑のことを「最も残酷で恐ろしい罰」と呼びました。それは主に最も凶悪な男性犯罪者のために用意され、それは恐ろしい、ゆっくり、痛い死を保証するものでした。十字架に釘付けにされたイエスは、不可能な姿勢を維持することになりました。呼吸をするために、イエスは足の釘を押し下げ、体を起こす必要がありました。その呼吸が耐え難い痛みとなり、窒息死させます。その上、イエスは全裸で辱めを受けました。

このようなグロテスクで邪悪なシンボルが、神のみわざにより美しいものになりました。もはや、悪や罰や死の象徴ではなく、慈悲や愛や赦しの象徴になりました。もし私があなたに電気椅子や死刑のための致死注射を行う場所の写真を見せたら、おそらく非常に不快に感じることでしょう。見たくもない写真です。しかし、私たちは十字架を見るたびに、神の絶大な愛を感じるのです。神は悪を善に変えられたのです。

聖書の中で、神が悪を善に変えられたもう一つの例が、使徒の働きの中にあります。ある人たちがステパノに言いがかりをつけたので、ステパノは神への冒涜の罪で逮捕されました。ステパノは、イエスについて、またイエスが約束のメシアであることを証しし、最高法院が神に従わなかったことを批判しました。

最高法院は激怒し、彼を石打ちの刑に処しました。悲惨な出来事でありました。その後、エルサレムのクリスチャンに対する迫害が行われました。エルサレムのクリスチャンたちは、ステパノに起こったことを聞き、彼らは迫害を恐れて、多くの人がエルサレムを離れ、パレスチナや地中海の地域に逃れました。このお話を読んでいると、まるで神がコントロールできていないような、負けているような気がします。まるで悪が優勢であるかのように感じます。まるで、神の国が後退しているかのように感じます。

しかし、驚くべきことに、これはすべて神の計画の一部だったのです。ステパノが殉教し、クリスチャンたちが恐れて逃げ出したとき、彼らは何を一緒に持って行ったのでしょうか?イエス・キリストの福音です。使徒の働きの最初から、弟子たちがエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、そして地の果てまで証人となることは、神の計画だったのです。迫害が宣教を開始させました。ある有名な神学者は、「殉教者の血は、教会の種である 」と言いました。ステパノの死後、まさにこのようなことが起こりました。神は、悪いもの、恐ろしいもの、不可能なものを、良いことのために計らわれました。

創世記50章20節に類似する箇所はローマ8章28節であり、多くの方がよくご存知の箇所だと思います。ローマ8章28節「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」創世記50:20には、「神は悪を良いものに変えられる」と書いてあります。ローマ人への手紙8章28節には、「神はすべてのものを益としてくださる」と書いてあります。悪に直面しても、苦しみに直面しても、苦難に直面しても、失敗に直面しても、神はそれを益のために用いてくださるのです。

「良いこと」「益」とは、どのようなことでしょうか?神は、あなたの状況を、あなたをキリストに似せ、信仰において成長させるために用いられます。神はあなたの状況を、神の王国を拡大し、強化するために用いられます。神は、あなたの人生に美しさと新しさをもたらすために、悪と苦しみを使われます。悪に直面したとき、撤退するのはとても簡単です。悪が勝つと言うのはとても簡単です。希望を捨てるのはとても簡単です。あなたの人生は悪に直面していますか?あなたの人生は苦しみに直面していますか?人間関係の難しさでしょうか?経済的な困難でしょうか?

どんなことがあっても、それは無駄でも、絶望でもありません。苦しみがあったとしても、理由があること、神が無限な知識により定められたことを念頭に置くと、一筋の希望が与えられるのではないでしょうか。そして、喜びさえも与えられるでしょう。時には、その将来の善が私たちの知らないものであるかもしれません。そのためには、私たちの側に、神が約束を果たしてくださるという信仰が必要です。神はすべてを、絶対にすべてを用いて、善を引き出されるのです。イエスと共に歩む私たちは、神が悪を益に変えてくださる、神がすべてのものを益に変えてくださる、その破られることのない約束の上に立とうではありませんか。