日曜メッセージ:「しもべの姿」ピリピ2章1節〜11節

聖書箇所:ピリピ2章1節~11節

タイトル:しもべの姿

日本、日系人の縦社会の中では、謙遜な態度はよく見られるものですよね。会社や学校で、後輩は先輩に謙遜な態度を持って接します。「日本沈没」のテレビ番組(また同じお話をしてすみません)の中で、副首相が日本沈没説を認めないシーンがあります。地質学者の確証があるのに、副首相は日本が沈没することを否定します。その時、主人公は、みんなが恐れている副総理に「目を覚ましてください」と言います。ここで感動したことは、この主人公は上に立つ人を敬いつつも、間違っていることは、はっきり間違っていると言ったことです。

私たちの生活の中で思う謙遜と、聖書の言う謙遜は少し違います。特に西洋社会の中では、謙遜な態度を持つことは弱い、小心者だというイメージもあると思います。しかし聖書が言う謙遜はそういうイメージはなく、美しいものです。イエスは謙遜そのものであり、真の謙遜さはイエスから学ぶことができます。

今日のメッセージは二つに分かれます。1)しもべの姿:イエス。2)イエスの謙遜さ3)しもべの姿:私。待降節の第二の週に入りました。私たちは教会として、私たちの主であるイエスのご降誕の時のために心を備えています。今日の箇所、ピリピ人への手紙2章1節~11節はイエスキリストの人格を記述している素晴らしい箇所です。イエスキリストの性質、キリストが神であること、顕現されたこと、神が人としての姿をして現れたこと、そして昇天されたこと、神の右の座につかれていることが描かれています。この箇所はクリスマスにピッタリな箇所です。イエスは人としてこの世に来られ、小さな町のベツレヘムでご降誕されました。この待降節、私たちはどのようにイエスと同じような謙遜な態度を持ち、過ごすことができるのか考えたいと思います。

1)しもべの姿:イエス。今日はピリピ2章1節~11節の後半からお話を始めます。2章6節「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、」と始まります。「み姿」という言葉が使われていますが、この言葉はただ見かけや外見が同じという意味ではありません。キリストは神と同じように見えるけれども、神とは別の性質を持っている、ではありません。

キリストは神であるので、キリストの性質は神の性質と同じであり、完全に一致しています。イエスは、神よりも低い地位や順位にいるわけではありません。イエスイコール神です。聖書は多くの箇所で、主イエスが神だと語っていますが、今日の箇所はその中でも重要な箇所で、キリストは神である、とはっきりと示されています。

神という存在を考えて見ましょう。神は全知。完全な知恵。すべての事を知りうる知恵。神は全能。何事でもなしうる能力。神はご自分の御心により動かれ、神は遍在する。神は創造主。万物の主。聖書の様々な箇所でこのように描かれています。神は全ての栄光をお持ちである方、全ての礼拝にふさわしい方です。

ピリピ2章7節「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、 人間と同じようになられました。 人としての姿をもって現れ、」神であるイエスは、人間になりました。皆様は人間の苦労をよくご存知だと思います。人間としての歩みは簡単ではなく、たくさんの苦労があり難しいです。体はすぐに傷んだり、病気になったりします。人に侮辱されたり、嫌なことを言われて心は傷つきます。愛する人を失います。仕事のストレスや過労があります。人間の苦労はリアリティーです。しかしイエスは、人間は人間でも、一番最悪な低い立場、しもべとして現れました。しもべよりも、本当は「奴隷」という言葉のほうが当時の状況を表す、適切な言葉だと思います。現代の聖書訳は「奴隷」という言葉は極端すぎるということで、しもべという言葉を用いています。

想像して見ましょう。王様が全ての富、権威、力を失い、奴隷になるのです。王様は快適な環境をすて、傷つきやすい状態になるのです。どれほどの謙遜な態度が必要なのでしょうか?神であるキリストはご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになりました。神はしもべの形、仕える者の姿を取りました。このポイントも重要です。キリストは力と富がある王様、指導者、金持ちのように現れず、乏しい人としてこの世に現れました。キリストは乏しく生まれ、乏しく毎日を過ごされました。

さらに、キリストは犯罪者の姿にまでなりました。ピリピ2章8節「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」乏しい生活からさらに犯罪者の姿を取りました。キリストは人類の罪を贖うために、逮捕され、投獄され、むちで打たれ、すさまじい死を経験されました。 罪人をはりつけにした十字架の死は当時、屈辱的なものでした。

キケロという古代ローマの政治家、雄弁家が十字架に対してこのような発言をしました。彼は十字架の刑について「最も極端な死の形」、または「最も忌みきらうべき死の形」と表現しています。同じく、古代ローマの哲学者、政治家のセネカは十字架に架けられる前に死ぬほうがましだと言いました。主イエスは人目を避けることもできず、ツバを吐かれ、侮辱されました。しかし、イエスは文句も言わず、告訴人たちを訴えず、冷静にすべてを背負われました。私たち人間が、神に背いているときに、神の敵でいたときに、十字架の上で私たちの罪のために亡くなってくださいました。なんという謙遜な態度でしょうか?

2)イエスの謙遜さ。パウロが書いた他の手紙と、ピリピへの手紙を比べると、ピリピへの手紙は喜びがある手紙です。他の手紙の中では様々な重大な問題を解決しようとしますが、ピリピへの手紙はそのような問題はあまり書かれていません。しかしピリピの教会には、一つの問題があったそうです。それは、教会が一致していないことでした。意見の相違です。パウロはこの問題について、教会が一致を保つように、心を合わせるように、志を一つにするように熱く語っています。この一致を保つ方法は、主イエスの謙遜な態度から、見られる、学べるとパウロは教えます。

私たちは主イエスの謙遜な態度から、一致を保つ方法をどのように学ぶことができるのでしょうか?そもそも、主イエスの謙遜な態度とはどういうものでしょうか?一つの辞書によると、謙遜というのは「自分の能力・価値などを低く評価すること。控えめに振る舞うこと。「自分の能力や功績などをおごらず、控えめに振る舞う意を表すこと」とあります。

聖書によると、謙遜というのは(ピリピ2章3節~4節)「利己的な思いや虚栄からするのではなく、互いに人を自分より優れたものと思うことです。 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。」聖書の謙遜は礼儀ではありません。見かけではありません。聖書の謙遜はそれよりもう一歩先を行きます。心から溢れる深い謙遜です。それは、互いを自分より優れたものと思うこと。他の人を自分より高いところにおくことです。

私たちがキリストにあって一致するためには、自分の意見が正しい、あなたの意見は間違っている、と自己主張ばかりするのではなく、自分を謙遜し、他の人を自分より高いところに置くことが必要です。

想像してみましょう。もし、私たちは互いに人を自分より優れたものと思い、自分のことだけでなく、他の人のことも顧み、人のことを大切に思い、他人を敬うと、どのような人間関係を築くことができるでしょうか?どのような教会をたて上げることができるでしょうか?

誰かが私に対して謙遜な態度を表してくれたことを一番覚えているのは大学時代です。私は大学時代、サッカーをしていました。私が一回生の時、サッカーチームのキャプテンが、彼は4回生の大先輩でしたが、彼はシーズンの一番最後の試合の後にチームを集めて、一人一人の足を水で洗いました。主イエスが弟子たちの足を洗われたのと同じようにチームの一人一人の足を洗いました。感動的でした。この先輩はチームの中で一番サッカーが上手で、重要な選手でした。どちらかというと他の選手が彼の足を洗わなければいけないほどでした。しかし、彼は丁寧に一人一人の足を洗いました。

地位が高い人が謙遜な態度を表す例は聖書の中に幾つかあります。一つはソロモン王のお話です。ソロモン王は立派な王様でした。聖書によると、ソロモン王は富と知恵とにおいて、地上のどの王よりもまさっていました。しかし、ソロモン王はこのような発言をしました。「わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。」

これは神に対しての謙遜な態度です。自分だけの力、能力では国を治めることができないことを認識して、神の力、能力を求めました。残念ながら、ソロモン王は高慢になり、様々な過ちを行います。しかし、その度にソロモン王は自分のことを子供のように低くして神に助けを求めました。素晴らしい模範です。

2)しもべの姿:私。では私たちは日々の生活の中で、どのようにして謙遜な態度を取ることができるでしょうか?一つ目に大切なことは:神に従うことです。キリストはこの地上での生涯を通して、神のご計画に従われました。最期、十字架の死にまでも、従われたのです。私たちも同じように、謙遜な態度を表すためには、まず神の導きに従う必要があります。神が私たちにお与えになった召命、コーリングに従う必要です。子であるイエスは父なる神に従います。神に従うことは、神の権威と主権を認識して、神の召しに従うこと、そして神の教えに従うことです。主イエスはこの世での生涯を通して、神の召しに完璧に従われたのです。

二つ目に大切なことは、自己中心的な考え方、虚栄、プライドをすて、神を人生の中心にすることです。不快に感じても、心地良くないように思われても、キリストは神のご計画に従われました。

神は私たちをどのように導いておられるでしょうか?神は私たちを難しいところへ導いておられるでしょうか?低いところへ導いておられるでしょうか?私たちはそのご計画に抵抗していないでしょうか。「この人と和解するべきだけど、私にも理由があって、難しい」。「この人に神の愛を伝えるべきだけど、恥ずかしいから難しい」。自分の都合や自己中心的な考え方で進むのではなく、神の召し、教え、導きに従って進みましょう。

キリストは神に従い、どうされたでしょうか?栄光が与えられました。ピリピ人への手紙2章9節~10節です。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」神は主イエスにあらゆる権威を与えられました。キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。

一番高いところにおられたキリストは、一番低いところへ行かれ、そしてまた、一番高いところへ行かれました。主イエスはご自分を無にした結果、神の右の座が与えられました。私たちも、神に従うことで、大きな祝福があります。霊的な恵みが与えられるのです。私たちも同じように、神の導きと召しに従い、謙遜な態度で生活できるように、神の力と支えをお祈りしましょう。