日曜メッセージ:ヨハネの福音書 2:1–12「イエスの最初の奇跡
ヨハネの福音書 2:1–12 イエスの最初の奇跡
ヨハネ2章1–12節は、最初の弟子たちの召命(ヨハネ1:35–51)の直後に置かれています。
カナの婚礼での奇跡は、ヨハネの福音書における最初の「しるし(σημεῖον)」です。
ヨハネ20章31節に記されている目的声明が、この物語全体を枠づけています。すなわち、これらのしるしは、読者がイエスをキリストと信じるために書かれたのです。
イエスの最初の公のしるしは、癒やしや悪霊追放ではなく、婚礼の席での静かな変化でした。それは、イエスの権威の力を示す前に、まずイエスの栄光を明らかにする出来事でした。
場面設定:ガリラヤのカナの婚礼(1–2節)
1世紀のユダヤ文化における婚礼は、短い儀式ではなく、数日間にわたる共同体的な祝宴でした。
カナは小さく目立たない村であり、このことは、神の啓示がエルサレムの中心ではなく、周縁から始まることを強調しています。
危機:「ぶどう酒がありません」(3節)
あなたはこれまでに、客を招いたのに、____がないことに気づいたことがあるでしょうか。
ぶどう酒がなくなることは、主人の家族にとって公の恥となる重大な出来事でした。
ぶどう酒の不足は、この物語の中心的な緊張を生み出します。
マリアは誰よりも先にその問題に気づき、それをイエスのもとに持って行きます。
彼女の言葉は命令ではなく、必要を差し出す表現です。
イエスの応答と「その時」の問題(4節)
イエスの応答――「女の方、私と何の関わりがあるのでしょうか」――は、ちょっとぶっきらぼうに聞こえますが、当時の文脈では無礼な表現ではありません。
「私の時はまだ来ていません」という言葉は、十字架、復活、そして栄光化へと視線を向けています。
イエスは人間の都合やタイミングではなく、神のご計画に基づいて行動されます。
この初期のしるしでさえ、すでに十字架の影の中にあります。イエスの栄光は、最終的に苦しみと自己犠牲の愛を通して現されるのです。
マリアの信仰と従順の姿勢(5節)
マリアは反論もせず、退くこともしません。
彼女がしもべたちに語った言葉――「あの方が言われることは、何でもしてください」――は、弟子としての姿勢の模範となります。
彼女は手放し、その結果をイエスに委ねます。
石の水がめ:きよめと象徴(6節)
6つの石の水がめが置かれており、これはユダヤ人のきよめの儀式のために用いられていました。
それぞれの水がめは20~30ガロン(約75~115リットル)入り、そこには容量と目的の両方が示されています。
これらの水がめは、旧い秩序――儀式的な清め、外面的な純潔、そして未完成な成就――を象徴しています(「6」という数はしばしば未完成を示します)。
イエスは旧いものを捨て去るのではなく、それを満たし、変えていかれます。
変化の出来事:水がぶどう酒に変えられる(7–9節)
しもべたちは水がめを「いっぱいになるまで」満たしました。これは完全さを強調しています。
この変化は、見せ物のような形では起こりません。言葉も、身振りも、目に見える動作もありません。
この奇跡の源を知っていたのは、しもべたちと弟子たちだけでした。
神の最も偉大な働きは、しばしば静かに行われ、信頼し従う者たちによってのみ認識されます。
ぶどう酒の質と量(10節)
宴会の世話役は驚きます。最も良いぶどう酒が、最後に出されたからです。
生み出されたぶどう酒はおよそ120~180ガロンにも及び、必要をはるかに超える量でした。
この豊かさは、旧約聖書におけるメシア的祝福と回復の約束を先取りしています。
キリストにおいて、神は必要を満たすだけでなく、それを超えて与えられます。
9. しるしの目的:栄光と信仰(11–12節)
ヨハネは、この奇跡を最初の「しるし」と明確に呼んでいます。
このしるしはイエスの栄光を現し、その結果、弟子たちは信じました。
信仰は説明によってではなく、現された栄光との出会いから生まれます。
1. 小さく思える必要であっても、イエスのもとに持って行く
車のエンジン警告灯が点いた経験は、多くの人にあるでしょう。最初は車は普通に走ります。煙も出ず、音もせず、緊急事態でもありません。そのため、「きっと大したことはない」と思って無視してしまいます。しかし数か月後、簡単に直せたはずの問題が、高くつく修理になることがあります。
カナの婚礼でぶどう酒がなくなったことは、大惨事ではありませんでした。それは不便さであり、気まずさであり、恥ずかしさでした。
マリアはそれを軽く扱いませんでした。彼女はその問題をイエスのもとに持って行きました。
小さな必要を放置すると、しばしばより深い問題が明らかになります。
マリアはただ事実を述べます。「ぶどう酒がありません。」
この危機は命に関わるものではありませんが、非常に人間的な問題です。
聖書は、霊的に重要に見える事柄だけでなく、すべての必要をキリストのもとに持って行くよう私たちを招いています。
ある人々は、「こんな小さな問題で祈るべきではない」と考え、重大な危機の時だけ神に近づこうとします。
しかしカナの出来事は、イエスが人間の尊厳や人間関係の調和に深く心を配っておられることを教えています。
ピリピ4:6「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 」
あまりに日常的で、あるいは気まずしいと感じて、祈りから遠ざける必要はありません。
2. 十分に理解できなくても従うことを学ぶ
ナビ(GPS)を使っていると、意味が分からない指示が出ることがあります。細くて遠回りに見える道、かえって遅くなりそうな道に曲がれと言われることがあります。私たちは全体の地図を見ることはできず、次の指示しか分かりません。「なぜか分かるまで待とう」としていると、その曲がり角を逃してしまいます。
しもべたちは、イエスが何をなさろうとしているのか分からないまま、水がめに水を満たしました。
その命令は、問題解決と直接結びついているようには見えませんでした。
しかし、信仰の歩みにおいては、理解よりも先に従順があります。
しもべたちの役割は、工夫することでも解釈することでもなく、忠実に行動することでした。
奇跡は、従順の前ではなく、従順の後に起こります。
多くの信徒は、十分な説明や確信を得てから従おうとしますが、聖書は一貫して、従順こそが理解への道であると示しています。
祈ってみなさい、従ってみなさい
今、キリストが私に求めておられる、シンプルな従順は何でしょうか。
3. 持っているものを差し出し、キリストの働きに信頼する
しもべたちは水を用意しました。ぶどう酒を生み出したのはイエスです。
神は、私たちが持っていないものを求められることはほとんどありません。神が求められるのは、すでに私たちの手にあるものです。
生み出されたぶどう酒は、ただ良いだけでなく、豊かでした。
神の寛大さは、単なる必要を超えています。
「足りない」「十分ではない」という思いが、私たちが自分自身を差し出すことを妨げることがあります。
しかしカナの出来事は、変えるのは私たちではなく、キリストであることを思い出させます。
十分でないと感じるがゆえに、時間、賜物、資源を差し出すことを控えていないでしょうか。
4. しるしに応答して、より深い信仰へと進む
コンサートでは、印象的な演奏に拍手が起こります。その瞬間は感動しますが、演奏が終われば、人々は変わらずに家へ帰ります。
弟子たちはこのしるしを見て、信じました。
多くの人がぶどう酒の恵みを受けましたが、信じたと記されているのは弟子たちだけです。
キリストに出会う目的は、驚くことではなく、信頼することです。
しるしは、霊的な娯楽ではなく、より深い関係へと招くものです。
神の働きを目にしても、変わらないままでいる人は少なくありません。
真の信仰とは、現されたキリストの栄光を中心に、人生の向きを組み替えていく応答です。
キリストは、私の人生の中でどのようにご自身の栄光を現してこられたでしょうか。そして私は、それにどのように応答しているでしょうか。