日曜メッセージ:「和解の道」創世記44章1節〜13節

聖書箇所:創世記44章1節~13節

タイトル:和解の道

ハワイは歴史に溢れたところです。前にパンチボールで葬儀を執り行ったとき、ダウンタウンとワイキキを見下ろす公園を訪ねたことがあります。美しい公園です。この公園に行くには、小道を登っていかなければなりません。その道には、たくさんの飾り板があります。その中に “On September 4, 1995 World War II Veterans Met In Reconciliation and Friendship”「1995年9月4日、第二次世界大戦の退役軍人たちが、和解と友好のために集まった」と書かれた飾り板がありました。この飾り板は、日本の海軍退役軍人会から寄贈されたものです。戦時中、日米両国が互いに抱いていた憎しみ、怒り、恐怖を想像してみてください。しかし、戦後は平和、友情、そして和解がありました。

和解は難しいです。和解には時間と労力が必要です。多くの場合、和解は不可能と思われることがあります。ヨセフの物語を見ると、和解がどれほど難しいのか分かります。ヨセフは兄弟に自分の正体を明かすことができません。ヨセフは自分の本当の気持ちを兄弟に伝えることができません。ヨセフは恐れと不安を抱いています。

続けてヨセフの物語です。先週は、飢饉のために穀物を買い足すためにエジプトに戻った兄たちについて学びました。ヨセフは彼らを歓迎し、家に招き入れました。創世記44章では、兄たちが帰国するための準備をします。しかし、ヨセフは再び兄弟を試すために、巧妙な策略を練ります。創世記44章1節~13節

私たちは、神はヤコブの家族を飢饉から救うために、ヨセフをエジプトへ導かれ、エジプトの指導者にされたことを知っています。私たちは、神がこれらの出来事を計画されたことを知っています。私たちは、ヨセフが自分の正体を明かし、家族と和解するのを待ち望んでいます。ヨセフが家族に会いたがっていること、家族と再会したがっていることを私たちは知っています。しかし、ヨセフはためらっています。ヨセフは不安です。ヨセフは、過去に起こったことについて兄弟が本当に反省しているかどうかを確かめるために、兄弟たちを再び試します。

皆さんの中にも、ヨセフと同じような境遇の方がいらっしゃるかもしれません。あなたの人生には、和解を求める人がいるかもしれません。あなたの人生には、修復を求める人間関係があるかもしれません。誰かに傷つけられ、その人を赦すことができないでいる人もいるかもしれません。神様と和解したクリスチャンである私たちに、神様は和解の務めを与えてくださいました。ヨセフの物語を通して和解について学び、神と和解した者として、どのように和解を追求すればよいかを考えてみましょう。

ヨセフと兄弟の例:和解の道は難しい。1)ヨセフは兄弟を試すために策略を練った。2)ユダは全ての責任を認める。

1)ヨセフは兄弟を試すために策略を練った。ヨセフはまたもや兄たちを試す計画を立てます。ベニヤミンの袋の中に銀の杯を隠すことにしました。兄たちが穀物を持って出て行った後、ヨセフは家を管理する人を送って兄たちを追いかけます。計画通り、彼はベニヤミンの袋の中にヨセフの杯を見つけると、兄たちは心臓が止まりました。

ヨセフはなぜそのようなことをしたのでしょうか。ヨセフは兄たちがどのような反応をするか見たかったのです。兄たちはベニヤミンを置いていくだろうか?兄たちは、すべてをベニヤミンのせいにするだろうか?兄たちは、家に帰れるようにベンヤミンを犠牲にするでしょうか?それは、兄弟が末の弟であるヨセフにしたことであります。ヨセフは、きっと兄たちはベニヤミンにもそうするのだろうと思いました。

しかし、今の兄たちは違います。ベニヤミンを深く愛していることがわかります。彼らは弟を見捨てない。彼らは皆、エジプトに戻り、ヨセフにベニヤミンの命乞いをします。彼らは純粋にベニヤミンのため、家族のためを思っているのです。

兄弟のうちのリーダー、ユダは言います。創世記44章16節『ユダが答えた。「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。今このとおり、私たちも、そして、その手に杯が見つかった者も、あなた様の奴隷となります。」』「神がしもべもの咎を暴かれたのです」という言葉は、ユダと兄弟が過去に起きたことを本当に反省していることを示しています。ユダは、過去に自分たちがしたことが、自分たちを神の裁きの下に置くと考えています。自分たちは弟を奴隷として売ったのだから、自分たちも奴隷になるのが罰なのだ。

ヨセフは巧妙な計略を練ります。しかし、それは必要なのでしょうか?ヨセフは正体を明かせば、この混乱も痛みもなくなるはずです!ヨセフは心の奥底で、兄たちの裏切りによって傷ついたままだったのです。あまりにも多くの痛みと恐怖が彼の心の中にあったのです。自分の正体を簡単に明かすことはできませんでした。

私たちの多くがそのような状況に置かれています。あまりにも多くの痛みがあり、あまりにも多くの傷があるから、和解のために積極的に行動するのではなく、言い訳をするのです。忘れてしまうのです。あきらめてしまうのです。しかし、それは神様が私たちに望んでおられることでしょうか?

2)ユダは全ての責任を認める。ユダはヨセフに、これはすべて間違いだったと説明しようとします。ユダは、これは偶然に起こったことだと説明しようとします。かなり印象的で雄弁なスピーチです。ベニヤミンがヤコブにとってどんなに大切な存在であるかをヨセフに説明します。もしベニヤミンが兄たちと一緒に帰ってこなかったら、ヤコブは深い悲しみに包まれるでしょう。驚くべきことに、ユダはヨセフに、ベニヤミンの代わりに自分が罰を受けてもいいと頼みます。末の弟であるベニヤミンに対して、そして家族全員に対して、なんという愛の行為でしょうか。ユダは、すべての責任と罰を自ら引き受けようとしています。

創世記44章33節~34節「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。あの子が一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れるでしょう。父に起こるわざわいを見たくありません。」ユダは昔はひどい兄でした。しかし、ユダは今、家族に対して犠牲的な愛情を示しています。先ほど見たように、ユダも自分の非を認めています。真の悔い改めを示しています。彼は変わり、成熟しました。このように、ユダは長い年月を経て、ヨセフと和解する準備が整ったようです。

悔い改めと許しがなければ、和解は不可能です。悔い改めとは、自分がしたことについて「ごめんなさい」と言うことです。赦しとは、「あなたを許します」と言うことです。私はもはや、あなたを非難することはしません。真の和解のためには、この両方が必要なのです。ユダと兄弟は反省しています。ヨセフは兄たちを許す準備ができています。創世記45章でようやく、ヨセフとその家族の素晴らしい和解を見ることができます。

キリスト者として追求する和解。1)神は私たちをご自分と和解させた。2)神は私たちに和解の務めを委ねられた。

1)神は私たちをご自分と和解させた。アダムとエバが神に背いて以来、人間と神の間には敵意が存在します。私たち人間は、もともと神に反抗的です。聖書では、人間と神は敵同士であると書かれています。私たちは神に対して罪を犯します。私たちは神を無視します。私たちは神を忘れます。私たちは、神にふさわしい礼拝を捧げません。しかし、神はご自分の愛によって、この壊れた関係を和解させるために、ひとり子であるイエスを遣わされることを決心されました。神は、御子をこの世に送られ、十字架につけて死なせることによって、和解を成就されました。

信仰によって、神は私たちにこの和解の贈り物、命の贈り物を与えてくださいます。信仰を通して、私たちは神との平和を得ます。平和の反対は戦争と紛争です。ウクライナで起きていることを見ると、打ちのめされます。私たちは、もはや神の敵ではなく、イエスは私たちを 「友 」と呼んでくださいます。

ここで強調したいのは、神が私たちとの和解を始められたという点です。神は御子を遣わされました。イエスは十字架で死なれました。イエスは、私たちの罪のために刑罰を自ら受けました。イエスは死からよみがえり、死に打ち勝ちました。これはすべて神が始めたことです。

2)神は私たちに和解の務めを委ねられた。第二コリント5章18節「神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。」イエスは私たちに和解の働きを私たちに委ねられました。私たちはキリストに代わる使節であります。これはどういうことでしょうか。それは、自分が悪いことをしたら謝り、自分が悪いことをされたら許すということです。

誰かを傷つけましたか?和解を追求しましょう。私たちが神に対して罪を犯したとしても、神様は私たちを救うために御子を送って、ご自分と和解させてくださいました。同じように、私たちも互いに和解を求めるのです。あなたは誰かから傷つけられたことがありますか?あなたのお父さんやお母さん?兄弟や姉妹に傷つけられたことはありますか?職場の同僚?友達?教会の誰か?神があなたを赦されたように、あなたも赦しなさい。

2015年、サウスキャロライナ州のチャールストンにある、アフリカンアメリカンの教会での銃乱射事件を覚えていらっしゃるでしょうか?この事件で9人の方が殺されました。この事件の後、普通では考えられない出来事がありました。犯人に対する判決が出る裁判でのことです。

裁判を傍聴していた被害者の家族の一人、70歳のお母さんを亡くした方が犯人にこう言いました。「あなたは私から大切な人を奪いました。私は彼女ともう話せません。彼女をハグすることもできません。しかし、私はあなたを許します。あなたの魂の上に神の憐れみがありますように」。。。信じられないですね。なぜ、こんな風に言えたのでしょうか?

許すことは難しいです。世間には、弱い人だけが許す、や、許さなくても良いこともある、と思う人もいるでしょう。しかし、私たちは許された人たちです。神はご自分の愛と恵みにより、私たちの罪を許してくださいました。だから私たちも、人を許しましょう。私たちが受けている同じ愛と恵みを表しましょう。聖書から言うと、キリストにおいて私たちを赦してくださったように、私たちは優しい心で互いを赦し合うのです。

和解は、神の御国、宣教の働きです。ひとつの例です。ご存知の方も多いと思いますが、ふちだ・みつおという名前をお聞きになったことはあるでしょうか?彼は真珠湾攻撃で空中攻撃隊の総指揮でした。彼は、戦後、元空軍軍曹であった、ジェイコブ・デシェーザーという宣教師の書いたパンフレットを読んだことから、キリスト教に関心を持ち、クリスチャンになって、のちに熱心な伝道者になりました。彼は1952年から1957年の5年間に8度もアメリカへ伝道の旅に出かけ、神の許しと愛を宣べ伝えました。